今日は、もういちど、ベルクソンの笑いの理論に立ち還ってみたいと思います。


 ― 生けるものの上に貼りつけられた機械的なもの、それがやはり我々の出発点である。この際どこからおかしみが出てきていたのか。生ける肉体がこわばって機械になっていたからである。だから、生ける肉体は完全なしなやかさ、いつも働いている原理のいつも目覚めている活動でなければならぬように思われていたのだ。だが、この活動は実は肉体よりもむしろ精神に属しているものであろう。 … 我々が生ける肉体のなかにほかならぬ優美としなやかさを見ているのは、我々がその中にある重さあるもの、抵抗あるもの、つまり物質的なものを顧慮しないからである。我々はその生命力ばかりを念頭において、その物質性を忘れているのだ。(『笑い』 岩波書店 p.52)


ベルクソンは、滑稽さの理論において、「肉体に生命が宿っている」という素朴ではあるが強力な図式を思い出させてくれます。ベルクソンの笑いの理論では、この生命は、目に見えない軽やかさであり、優美さです。それは、重さがあり、優美さに欠ける肉体に運動を与えはしますが、ときおり自分の肉体を留守にします。そのときが滑稽さが現れる場面だとベルクソンは考えました。

上で引用した文章は、ベルクソンがもっとも滑稽さの本質に近づいた部分だとわたしは考えます。ベルクソンは笑いの本質をなかばつかんではいましたが、彼は同時に機能論的説明、すなわち笑いのなかに道徳的な矯正機能があると信じていました。笑いは、本質的に他人に屈辱を与えるものであり、その屈辱によって笑いの対象となった人物が、自分が正常さを逸脱したことを知り、それゆえに正常さに回帰するのであるとされました。

このような理論によっては、人間が自動現象的にふるまうこと、すなわち(つねに充実してあるべき)生命それ自体を失うという一面、精神の喪失という一面が、矯正措置としての笑いの主要な原因として現れます。しかしながら、笑いは、生命それ自体の発見にも、同様に現れるのではないでしょうか? そこが、私とベルクソンの考えの、おもな違いとなります。

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ドナルド

今日紹介するのは、ドナルドダックのイメージを上下反転すると、おどろくべきことにトランプ大統領の似顔絵になるという、聴覚である「ドナルド」のダブルミーニングのみならず、それに一致するかのように視覚像におけるダブルミーニングが奇跡的に生じています。それによって、通常人名として聞き流されていた発音「ドナルド」と、見慣れているドナルドの顔の視覚像が、物質的な像として、われわれは再発見することになるのです。
 このように、滑稽さが生まれる場面では、通常は意識の閾値下にある物質的・肉体的側面が、なんらかの原因によって意識されます。ベルクソンも、その点については適格でした。ベルクソン風に言えば、生命力を見ているつもりになっているところに、実は、肉体や物質をみていただけであることを暴露されると(我々はその生命力ばかりを念頭において、その物質性を忘れているのだ。)、それが滑稽さとなって笑いを引き起こすことになります。